大判例

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大阪高等裁判所 平成4年(行コ)21号 判決

控訴人

鈴木眞規子

右訴訟代理人弁護士

淺野省三

大澤龍司

高木甫

能瀬敏文

横井貞夫

浦功

被控訴人

天満労働基準監督署長

村上智之

右指定代理人

小野木等

外六名

主文

一  原判決を取り消す。

二  被控訴人が控訴人に対し昭和五九年一二月二〇日付でなした労働者災害補償保険法に基づく療養の費用の支給をしない旨の処分を取り消す。

三  訴訟費用は、第一、二審を通じ、被控訴人の負担とする。

事実及び理由

第一  当事者の申立て

一  控訴人

主文と同旨

二  被控訴人

1  本件控訴を棄却する。

2  控訴費用は控訴人の負担とする。

第二  事案の概要

次のとおり付加、訂正するほかは、原判決二枚目表七行目冒頭から同一一枚目裏六行目末尾までのとおりであるから、これを引用する。

一  「原告」を「控訴人」と、「被告」を「被控訴人」と、それぞれ改める。

二  原判決二枚目表九行目の「労働者災害補償保険法」の次に「(以下「労災法」という)」を加え、同裏四行目末尾の「三月二五日」を「三月三一日」と、同八行目の「一二月三一日」を「一一月三〇日」と、それぞれ改める。

三  原判決三枚目表三行目末尾の「労働保険」を「労災保険」と、同七行目の「初療の時」から同行末尾までを「初療の日から九か月以内を保険給付の対象となる施術期間とするが、右期間の経過した時点において施術効果がなお期待し得ると認めたときは、さらに三か月(初療の日から一二か月)を限度として右施術期間を延長することができるものとされている。」と、それぞれ改め、同九行目の「九か月」の前に「右延長にかかる施術期間の残存期間である」を加え、同一〇行目の「一律に三か月とする))を以って」を「右施行日が初療の日から三か月を経過した日とみなされる)の経過する昭和五八年三月三一日をもって」と改める。

四  原判決三枚目裏八行目の「労働基準法」の次に「(以下「労基法」という)」を加え、同四枚目表一行目の「労働基準法」を「労基法」と改め、同七行目冒頭から同末行末尾までを削除する。

五  原判決六枚目表四行目冒頭から同七枚目表四行目末尾までを、次のとおり改める。

「同診療所は、控訴人の職場復帰までの治療プログラムとして、まず鍼灸治療を中心に温熱療法等の理学療法を併用して慢性化した強い痛みをとることを第一段階とし、次いで右治療により疼痛に改善がみられた場合に、水泳等の運動療法により低下した筋力の強化を図ることを第二段階とし(運動療法実施に伴う運動量の増加により一時的に増大する痛みを抑えるため、この段階においても鍼灸治療は不可欠である)、右治療による症状の改善がみられた場合に、段階的就労、即ち、いわゆるリハビリ就労により職場復帰を図ることを第三段階とし(リハビリ就労に伴う労働負荷ないし運動量の増加による痛みの増大を抑えるため、この段階においても鍼灸治療は不可欠である)、完全職場復帰から治癒までを第四期と定め、治療を開始した。

控訴人に対する全治療期間を、右治療プログラムに沿って、水泳等の運動療法を開始するまでを第一期、運動療法を開始してからリハビリ就労を開始するまでを第二期、リハビリ就労期間を第三期、完全職場復帰から治癒までを第四期に分けると、その治療内容及び治療効果の推移は以下のとおりであり、具体的な治療経過は別紙「治療経過」、同「治療処方回数推移」、同「治療・処方」、同「鍼灸・理学治療実績表(月別)」のとおりである。

② 第一期(昭和五五年一〇月二日から同年一二月末まで)

控訴人は、頸肩背部、腰下肢にかけての強い痛みや頭痛、眩暈、ふらつきなどを訴え、また頸肩部から腰臀部には広汎に筋肉の凝りと圧痛が認められたため、強度の痛みをとることを目的として、鍼灸を中心とした治療が行われ、右治療の補助手段として温熱療法であるホットパック(以下「HP」と略記)やマイクロウェーブ(以下「MW」と略記)が併用された。

(治療期間 三か月)

(治療方法 鍼13回、灸11回、HP13回、MW11回、投薬1回)

③ 第二期(昭和五六年一月から同五七年三月まで)

松浦診療所では、控訴人の慢性化した筋疲労の改善のため、昭和五六年一月から、一方において運動療法として水泳を取り入れて筋力の回復を図るとともに、他方において鍼灸及び温熱療法によって筋緊張の緩和、筋の血流改善、筋の柔軟化を図り、運動量の増加に伴う一時的症状悪化(痛み、凝り、だるさ)に対しては鍼灸治療によって症状を軽減させ、徐々に運動量を増加させていった。

控訴人の症状は、一進一退を繰り返しつつ徐々に改善がみられ、昭和五六年九月ころには、一旦リハビリ就労の計画が立てられ、厳寒期を過ぎた翌年四月にはリハビリ就労が実現するほどの改善効果があった。

(治療期間 一五か月)

(治療方法 鍼47回、灸42回、HP38回、運動療法49回、投薬15回)

④ 第三期(昭和五七年四月から同五八年九月まで)

リハビリ就労期間であり、漸次リハビリ就労の日数及び一日当たりの就労時間を増加させつつ、鍼灸治療及び温熱療法並びに運動療法が併用された。運動療法については、昭和五七年九月から同年一〇月にかけては一時的症状悪化のため水泳療法を中止したこともあったが、昭和五八年五月からは治療効果があがったため、より運動量が負荷される体操療法に移行した。

運動量の増加及び親の看病疲れによる症状の一時的増悪もみられたが、昭和五八年の夏期には週五日(一日八時間)勤務が可能になるほど症状は改善された。

(治療期間 一八か月)

(治療方法 鍼54回、灸53回、鍼(通電)3回、HP51回、MW1回、運動療法29回、投薬36回)

⑤ 第四期(昭和五八年一〇月から同五九年一二月まで)

職場への完全復帰当初は腰痛、頸肩部痛の一時的増悪、強い疲労感等の症状も現れ、昭和五九年初めの厳寒期も鈍痛、凝り、しびれが持続したため、鍼灸、温熱療法、ビタミン剤の投与が続けられた(運動療法は前期で終了した)。

昭和五九年四月ころに改善効果が現れ、同月一八日以降は二週間に一回の通院治療となり、その後、職場の人員不足等による労働過重のため若干の症状悪化(凝り、鈍痛)もあったが、順調に回復して通院回数も減少し、同年六月二三日以降は鍼灸治療も行うことなく、同年一二月四日治癒した。

(治療期間 一五か月)

(治療方法 鍼6回、灸5回、HP6回、MW1回、投薬28回)」

六  原判決八枚目裏三行目冒頭から同九行目末尾までを削除する。

第三  争点(本件処分の違法性)についての判断

本件は、控訴人において、労災法一三条二項の療養補償給付の範囲は「政府が必要と認めるものに限る」との規定は、労基法七五条にいう「必要な療養」、同施行規則三六条にいう「療養上相当と認められるもの」と同義に解すべく、医学上の専門的判断であり、政府の裁量を認めたものではないから、一般医療と併用する鍼灸施術の療養補償給付の対象となる施術期間は延長されても一二か月を超えないものとする前記三七五通達及び三〇連絡(これらが対外的効力を有するものではなく、労働省部内の内部的処理基準たるに止まるものであることについては、当事者間に争いがなく、争点とはなっていない)は、労災法の右規定の法意に反し、かつ、鍼灸治療の適応症、効果等に関する医学的文献を無視した、合理性を欠く不当なものであり、また、控訴人は右通達及び連絡の定める施術期間経過後も鍼灸治療の併施を医学的に必要としていたのであるから、右通達及び連絡に従ってなされた本件処分は、労災法の右規定に違反する違法なものである旨主張するところ、被控訴人はこれを争い、労災法の右規定は療養補償給付の範囲決定を政府の裁量に委ねたものであり、右通達及び連絡は、労災保険給付を所管事務とする労働省労働基準局の労働基準局長、同局補償課長が労災法の右規定に基づき発したものであって、右通達及び連絡の内容は、鍼灸施術に対する医学的知見及び鍼灸施術の特異性等からみて合理的なものであり、また、控訴人の鍼灸受診歴、病歴、本件鍼灸施術と併用して受けた他の治療方法との関係等を考え合わすと、控訴人が右通達及び連絡の定める施術期間経過後も鍼灸治療の併施を必要としていたとは認め難いから、右通達及び連絡に従ってなされた本件処分は正当なものである旨主張している。

そうすると、本件の争点は、① 労災法一三条二項にいう「政府が必要と認めるものに限る」の意義 ② 右通達及び連絡の非合理性ないし違法性(その前提問題としての鍼灸治療についての一般的医学水準における知見) ③ 本件処分の違法性(その前提問題としての本件処分にかかる鍼灸治療の必要性ないし相当性)の三点であるというべきであるから、以下、順次判断する。

一 労災法一三条二項にいう「政府が必要と認めるものに限る」の意義について

1 労災法に基づく労災保険制度は、労基法による災害補償制度から直接に派生したものではなく、両者は、労働者の業務上の災害に対する使用者の補償責任の法理を共通の基盤として、並行して機能する独立の制度であるが(最高裁昭和四九年三月二八日判決・裁判集民事一一一号四七五頁参照)、労災法に基づく保険給付の実質は、使用者の労基法上の災害補償義務を政府が保険給付の形式で行うものであって、受給権者に対する損害の填補の性質をも有するものであり(最高裁昭和五二年一〇月二五日判決・民集三一巻六号八三六頁参照)、労災保険給付がなされるべき場合には、使用者はその限度で労基法による災害補償の責めを免れるのであるから(労基法八四条)、労災保険は、実質的には労基法による災害補償についての責任保険の性質を有し、本来は使用者が労基法上履行しなければならない災害補償を政府にいわば肩代わりさせる機能を営むものと解するのが相当である。

2 そして、労基法は、その七五条一項において、労働者の業務上の災害に対する使用者の療養補償責任の範囲につき、「必要な療養を行い、必要な療養の費用を負担しなければならない」と定めるものであるところ、労災法が、その一条において、「労災保険は、業務上の事由……による労働者の負傷、疾病、障害……に対して迅速かつ公正な保護をするため、必要な保険給付を行い、あわせて、業務上の事由……により負傷し、又は疾病にかかった労働者の社会復帰の促進……を図り、もって労働者の福祉の増進に寄与することを目的とする」旨定めており、労災保険給付が、前記のとおり、労基法上の使用者の右療養補償義務の実質的責任保険の機能を営むべきものであることに鑑みれば、労災法に基づく療養補償給付(療養の給付または療養の費用の給付)の範囲を定める労災法一三条二項の「政府が必要と認めるものに限る」との文言を、労基法七五条一項の「必要な」との右文言とは別異に(より制限的に)解するのを相当とすべき特段の合理的理由は、何らこれを見出すことができないものと言わねばならない。また、労基法施行規則三六条は、「労基法七五条二項の規定による療養の範囲は、次に掲げるもの(診察、治療等、労災法一三条二項の一号ないし六号に掲げる事項と全く同一である)にして、療養上相当と認められるものとする」旨規定するところ、労災法及び同法施行規則にはそのような規定は存しないが、労災法の前記目的、実質、機能に照らし、労災法一三条二項の「政府が必要と認めるものに限る」との文言も、労基法施行規則の「療養上相当と認められるものとする」との右文言とは別異に(より制限的に)解するのを相当とすべき特段の合理的理由は、何ら存しないものというべきである。

3 従って、労災法一三条二項の「政府が必要と認めるものに限る」との文言は、労基法施行規則三六条にいう「療養上相当と認められるものとする」と同義に解するのが相当というべく、「療養上相当と認められる」とは、その当時の一般的医学水準を基準とした判断において療養上の相当性が肯定されることをいうものと解するのが相当であるから、労災法一三条二項の「政府が必要と認めるものに限る」との文言の意義は、政府がその当時の一般的医学水準を基準として療養上の相当性についての判断をすべき旨を定めたものであり、その当時の一般的医学水準を基準とする判断の範囲を超えた裁量を政府に委ねたものではないと解するのが相当である。

二  三七五通達及び三〇連絡の非合理性ないし違法性(その前提問題としての鍼灸治療についての一般的医学水準における知見)について

1  鍼灸治療についての一般的医学水準における知見について

(一) 鍼灸治療の鎮痛効果

鍼灸術は、二、三〇〇〇年来、臨床的実践の積み重ねにより、鎮痛効果が経験上確認されてきたものであり、我が国においては、明治以降医学から除外されていたが、昭和四八年にハリ麻酔が紹介されて以来、痛みの治療に鍼灸治療が取り入れられるようになり、臨床上、鎮痛効果のほか血行改善効果、筋肉弛緩効果、体調改善効果があるとされ(甲17、原審証人兵藤正義)、その効果等につき多数の研究報告がなされるに至っている。

そして、本件における控訴人の業務上の事由による疾病である頸肩腕症候群(「頸肩腕障害」は、「日本産業衛生学会頸肩腕症候群委員会の定義にかかる傷病名であり、業務起因性の障害であれば軽度のものから重度のものまで広く含む概念であって、本件には必ずしも適切ではないから、本件ではこれを用いない)及び腰痛症に対する鍼灸治療効果に関する研究報告について見るに、

(1) まず、頸肩腕症候群に対する鍼灸治療効果については、

① 兵藤正義報告・大阪医大ペインクリニックにおいて、やや有効以上84.1%(甲18)

② 大島良雄報告・東洋医学技術研修センターにおいて、やや有効以上55.6%、埼玉医大において、やや有効以上68.9%(甲34)

③ 塩飽善友他三名報告・岡山大学医学部において、やや有効以上79.6%(甲36)

(2) 次に腰痛症に対する鍼灸治療効果については、

① 兵藤正義報告・大阪医大ペインクリニックにおいて、やや有効以上73%(甲19)

② 大島良雄報告・東洋医学技術研修センターにおいて、やや有効以上53.5%、埼玉医大において、やや有効以上83.4%(甲34)

③ 塩飽善友他三名報告・岡山大学医学部において、やや有効以上86.4%(甲36)

と、いずれの疾患についても鍼灸治療が有効である旨の報告がなされている。

また、昭和四一年、大阪医科大に鍼灸療法を取入れたペインクリニックを設立し、以来これに携わり、日本鍼灸学会、日本疼痛学会等の会長を歴任した兵藤正義によれば、右ペインクリニックにおいては、頸肩腕症候群の場合、原則的には神経ブロック療法が適応の場合には神経ブロック療法を優先させるが、それだけでは行詰まりを来すことも多く、鍼灸療法もかなり併用されており、特に治療回数が増えるほど、次第に鍼灸療法にウェイトが移行して行く傾向にあり、腰痛症の場合、鍼灸療法は、神経ブロック療法に比して効果の上でドラマチックさが少ないが、適応が非常に広いのが特徴であり、利点であって、六か月以上の慢性症例に対しても著効ないし有効50%、一年以上の慢性症例に対しても著効ないし有効45%の治療効果があり、一般に鍼灸療法は体質絡みの慢性疾患に良く適応する(甲15ないし19、原審証人兵藤正義)。他にも、頸肩腕障害及び腰痛症につき、長期にわたって鍼灸療法が有効な例があった旨の報告があり(甲59)、五十肩についてではあるが、経患期間が三か月を超えると神経ブロック療法単独では無効例が目立ち、慢性期になると鍼灸を加えた併用療法が効果的であるとの報告もあり、また、一般的に、鍼灸療法と神経ブロック療法とは適応が異なり、一方の不適応を他方が補い合う関係にあるともいわれている(乙28)。

さらに、鍼灸治療は、神経ブロック療法や鎮痛剤投与等と異なり、薬物ショックや副作用がほとんど問題にならないという利点を有し、慢性的な頸肩腕症候群や腰痛症のように器質的障害に基づかない(即ち、整形外科の領域外の)痛みを主訴とする疾病の治療については、その痛み自体を除去し得るという意味では、単なる対症療法に止まらず、むしろ根本的な原因療法に当たるものである(原審証人兵藤正義、当審証人宇土博)。

また、鍼治療の効果は、鎮痛作用だけでなく、自律神経系、内分泌系、免疫系にも影響を与え、その結果として、中枢性及び反射性の筋緊張の減弱、末梢循環の改善等の作用を発揮し、さらに鍼刺激が全身的に生体の恒常性の維持、回復に働くという考えもある(乙28)。

(二) 鍼灸治療の鎮痛作用機序

鍼灸治療の鎮痛作用機序については、次の諸説がある。

(1) ゲートコントロール

脊髄後角第二層の膠様質において数多くの小型ニューロン(神経伝達物質を合成する神経細胞)が痛みのインパルスに抑制をかけるというもの。末梢からの侵害刺激情報が上位中枢へ伝達されていく途中で、神経相互間で干渉や修飾を受けるということは確かであり、鍼刺激がそういった働きをしている可能性は充分有り得るとされる(甲18)。

(2) エンドルフィンの遊離による上位中枢からの下行性抑制

鍼刺激は末梢神経系の求心路を介して脊髄の前側索を上行し、脊髄より上位の中枢神経系に及び、次に下行して中脳水道周囲灰白質、下部脳幹等を介し脊髄膠様質に至り、ここでエンケファリン作動性ニューロン等を賦活して痛みのインパルスを抑えるというもの(甲18、乙28)。

鍼刺激はエンケファリン、エンドルフィンなど内因性モルヒネ様鎮痛物質その他の神経伝達物質の遊離を促すが、モルヒネ受容器具は脊髄膠様質等の痛みインパルスの上行路及び下行性抑制系の諸中枢に多く存在するので、エンドルフィンがモルヒネ同様それらの部位に作用して鎮痛効果をもたらすとされ、実際にモルヒネの拮抗薬ナロキソンを投与すると鍼刺激の鎮痛効果は消失する(甲18、42)。また、ラットの中脳中心灰白質を破壊すると鍼刺激の鎮痛効果は消失する(甲27)。

(3) 末梢神経の遮断効果

鍼刺激が末梢神経自体に神経ブロック的に作用するというもの。

鍼による組織損傷から生じる負傷電流は神経伝動を阻害し、自律神経の興奮性を変化させ痛みのインパルスを局所的に修飾するものであり、また、最近では鍼麻酔の場合と同様、鍼治療時に置針した鍼に低周波の通電をすることが多いが、その場合、一〜三Hzの低頻度の通電はエンドルフィンの遊離を促す効果が強く、五〇〇Hz以上の高頻度の通電は痛みの神経伝動を直接遮断するといわれる(甲18)。

(4) 経穴(つぼ)刺針による痛みの閾値上昇

経穴刺針が痛覚閾値を上昇させることにより痛みが軽減するというもの。

Kイオン注入法によって測定された痛覚閾値は、10mg塩酸モルヒネの筋肉注射により平均80〜90%上昇するのに対し、経穴刺針(低周波置針)によっても平均65〜95%上昇するが、経穴に局麻剤ブロカインを注入し神経ブロックをした後に経穴刺針をしても、痛覚閾値の上昇は見られないとの鍼麻酔の効果に関する実験報告がある(甲21)。 周波数45Hzの分節内及び分節外の鍼刺激で歯牙疼痛閾値は有意に上昇し、鍼刺激の鎮痛効果が確認されたとの実験報告もある(甲23)。

(5) 血行動態の改善

座骨神経痛、筋肉痛、腰痛などの症状の発現には、筋に持続的な収縮を誘起する原因があって、筋の持続的収縮がその筋の血流を悪くし、その結果疼痛発現物質の蓄積を来し、これが痛みの原因となっていると考えられ、また、皮膚血流の変化も皮膚に存在する様々な受容器の閾値を変化させ、皮膚感覚に変化が生じる可能性が考えられるところ、鍼治療は、筋肉内の神経末端を刺激し、末梢神経の軸索反射により血管拡張を生じさせ、疼痛原因である緊張が増大した筋の低下した血行動態を改善し、疼痛発現物質が該部から運び去られることにより、疼痛部位の冷感と疼痛を消失させるとするもの。

熱電対温度計で鍼治療前後の疼痛部の皮膚温、筋肉温を測定すると、疼痛部は健側の対応部に比して皮膚温、筋肉温ともに低下しているが、疼痛部の筋に鍼治療を施行すると温度が上昇して健側の値に近づくとの実験報告がある(甲32)。

しかし、鍼治療はあらゆる疼痛を軽減させるわけではなく、神経挫滅のある外傷性三叉神経痛や上腕神経叢損傷による幻肢痛には有効ではないのであって、鍼治療は神経挫滅のある疼痛には鎮痛効果がほとんど認められないことからすれば、(2)説だけで無効例を説明するのは困難であるとされ(甲33)、また、鍼麻酔については(4)説で説明可能としても、痛みには鍼麻酔の対象となる痛みのほかに、病的な機序で発生する痛みがあり、これに対する鍼灸の鎮痛作用は様々な機序によるものとされ、また、ナロキソンでは拮抗されない鎮痛も明らかにされている(甲32)。

従って、鍼灸治療の鎮痛作用機序は、痛みの種類に応じた複数のものと考えられ、右各説のいずれか一つで全ての鎮痛作用機序を説明することはできず、未だ全ての痛みにつき完全に解明されたものとは言えないが、他方、いわゆる西洋医学上の鎮痛法であるモルヒネ施用が、中枢神経のどこに作用して痛みを抑制するかについても、未だ完全に解明されたわけではないのであるから(甲41)、鍼灸治療の鎮痛作用機序の解明の程度が、モルヒネ施用の場合に比して特に劣っているということはできない。

(三) 鍼灸治療の一般化状況

関東逓信病院ペインクリニック科が、昭和五四年一二月になした、全国の七四の大学病院に対するアンケート調査結果によれば、ペインクリニックが開設されている六六の大学病院(開設率90%)のうちの約76%に当たる五〇のペインクリニックにおいて、東洋医学である鍼灸治療が用いられており(甲5)、同時期になした、全国七四の一般病院に対するアンケート調査結果(回答したのは六三病院)によれば、ペインクリニックが開設されている三二の一般病院(開設率50.8%)のうちの約56%に当たる一八のペインクリニックにおいて、東洋医学である鍼灸治療が用いられていた(甲6)。

また、日本麻酔学会社会保険委員会が、昭和五三年一〇月になした、主として麻酔指導病院及び鍼麻酔の経験の比較的多いと目される病院二〇〇に対するアンケート調査結果によれば、回答した一二七病院中、現在鍼治療を行っている病院七七(59%)、鍼治療計画中の病院二四(20%)で、鍼治療については、実施または実施計画中を合わせると79%に達していた(甲4)。

右事実からすれば、右各アンケート調査から五〜六年後である昭和五九年一二月になされた本件処分時においては、我が国における鍼灸治療は、既に充分に全国的に普及し一般化していたものと認められる。

2 三七五通達及び三〇連絡の非合理性ないし違法性について

(一)  前項に認定の鍼灸治療の鎮痛効果、鎮痛作用機序の解明、全国的、一般的普及の程度によれば、本件処分当時において、鍼灸治療は、既に、痛みに対する治療の分野において、神経ブロック等のいわゆる西洋医学上の治療方法に比肩し得、これと相補い合うものとして、医学的、社会的に承認され、かつ、全国的に普及し一般化していたものと認めるのが相当である。

そうすると、三七五通達及び三〇連絡が、一方で神経ブロック等のいわゆる西洋医学上の治療の継続を認めながら、鍼灸治療については、初療の日から原則として九か月(三七五通達の施行日に初療の日から三か月以上を経過している者については、右施行日である昭和五七年七月一日が初療の日から三か月を経過した日とみなされる)、施術効果がなお期待し得るとして延長されても初療の日から一二か月を限度として、労災保険給付の対象となる施術期間を一律に終了させる取扱とする旨定めているのは、合理的根拠を全く欠くものと言わねばならない。

(二)  そして、労災法一三条二項の「政府が必要と認めるものに限る」との規定の趣旨は、労災保険の療養補償給付の範囲に関しては、政府がその当時の一般的医学水準を基準として療養上の相当性についての判断をすべき旨を定めたものと解すべきであることについては、前叙のとおりであるところ、右通達及び連絡の定めるところは、前項に認定の事実に照らし、一般的医学水準を基準とした判断の範囲内のものとは到底認め難いものというべく、労災法の右規定に違反した違法なものと言わねばならない(鍼灸治療が一般に体質絡みの慢性疾患に良く適応するものであって、一年以上の慢性症例に対しても著効ないし有効45%の治療効果があったことは前認定のとおりである)。

(三)  整形外科医である松元司は、鍼灸治療の労災保険給付の対象となる施術期間としては、医学的には六か月で充分であり、人により体質が違うので二倍の危険率を考慮しても一二か月で充分であって、それを超えて鍼灸治療の施術を要するのは私病ないし体質的なものである旨供述するが〔原審証人松元司、乙15ないし17(横浜地方裁判所昭和六〇年(行ウ)第三七号事件の証人尋問調書)〕、医学的に六か月で充分であることについては、これを認めるに足りる臨床例に基づく統計的、科学的資料は何ら存しない(同人らの共同研究にかかる乙21においても、治療期間ごとの治療成績の分析はなされていない)こと及び前認定の諸事実に照らすと、右供述は、鍼灸治療についての一般的医学水準の裏付けを欠く、一方的な判断に基づくもので直ちに採用し難いものと言わねばならない。因みに、同人自身、他の個所において、「一二か月」については、「全く科学的根拠はありません(原審記録九六三丁)」とか、労災保険が限定医療であることから生じる「労災保険上の制度的制約(同一〇一〇丁)」であって、「もっと重い傷病でも労災保険を一年半で打ち切っているのだから」、頸肩腕症候群の鍼灸治療などは一年で充分である(同一〇一一丁)旨供述しているところである。

(四) また、右通達及び連絡を発するに当たっては、労働省労働基準局補償課において、厚生省にその見解を求めたところ、厚生省としては労働省が鍼灸治療につき労災保険で健康保険と異なった取扱をすることには反対の意向であったが、四、五名の医家の意見を徴したほか、日本医師会、日本保険鍼灸マッサージ師連盟とも協議をし、その了承を得たので、これを発するに至ったものであるが(乙5ないし8)、右医家の氏名は明らかではないから、その選択に片寄りがなかったとは直ちに認め難いし、僅か四、五名の医家からの意見聴取をもって、鍼灸治療についての当時の一般的医学水準上の知見を調査し得たものとは到底認めることができない(本件全証拠によっても、労働省が右通達及び連絡を発するに当たり、研究論文にあたるなど、鍼灸治療について当時の一般的医学水準上の知見を独自に調査したとの事実は、全くこれを認めることができない)。また、日本医師会等との協議、了承は、医学的な見解の合致というよりは、むしろ政策的合意の成立に過ぎないものと認めるべく、前記認定に何ら影響を及ぼすものではない〔労働省労働基準局補償課長として右通達及び連絡の立案にあたった林茂喜自身、前記別件の証人尋問調書(乙5)において、健康保険では鍼灸治療の取扱が「六か月」となっているので、右通達及び連絡は、それを「いわば政策的に延長した」ものである旨供述しているところである〕。

(五) また、仮に、右通達及び連絡が発せられた当時、鍼灸治療につき、療養補償給付期間の制限のない濫給付と目される事例が生じていたとしても、濫給付の防止対策はまた別途に考慮されるべき事柄であり、濫給付は鍼灸治療以外のいわゆる西洋医学上の療法についても生じ得ることであって、療養上の相当性についての一般的医学水準を基準とする何らの根拠もないのに、単に濫給付のおそれがあるとの理由のみをもって、右通達及び連絡を正当化するがごときは、労災法一三条二項の前記趣旨に照らし、到底許されないものというべきである。

(六) また、前記四一〇通達及び二二二通達は、労働福祉事業として最長二年間鍼灸施術を行い得る旨定めているが、労働福祉事業と労災保険給付とは趣旨と目的を異にする独立した制度であるから、右各通達があるからといって、そのことが労基法による災害補償の責任保険の実質を有する療養補償給付の対象となる施術期間について、これを特に制限的に解すべき理由になるとは解し難い。

三  本件処分の違法性(その前提問題としての本件処分にかかる鍼灸治療の必要性ないし相当性)について

1  控訴人の発病及び松浦診療所における治療開始に至る経緯

(一) 控訴人は、昭和四九年三月、大阪城南女子短期大学幼児教育科を卒業して、同年四月、社会福祉法人今川学園キンダーハイム(児童福祉法に基づく精神薄弱児通園施設で定員50名)に保母として就職し、一時期、幼児教育(園児と母親が一緒に登園するもの)担当等であったほかは、通園部(園児のみ登園するもの)を担当していたものであるが、肢体不自由児を含む精神薄弱児の保育であるため、保母としては常時園児から目を離せない状況にあるほか、園児の遊びの補助、移動や排泄等の際、一々抱きかかえたり、支えたりしなければならず、通常の保育所の保母の場合よりも一層中腰など体に負担のかかる姿勢をとることが多く、昭和五〇年六月ころから、肩凝りや肩から背骨にかけてだるさが日常的となり、昭和五一年一二月、ぎっくり腰になって、昭和五二年一月、加美開放治療院で鍼灸治療を受けた。

(二) 控訴人は、昭和五二年七月に産休に入り、同年九月に第一子を出産し、昭和五三年一月に職場復帰したが、同年二月、腰痛が増悪したので長吉総合病院整形外科で受診し、「根性腰痛症」との診断を受けて通院し、二週間休業した。その後も、症状は軽減せず、昭和五五年六月に第二子出産のため産休に入っていたが、その間である同年七月三日、松浦診療所において、腰痛症(強度)及び頸肩腕障害(中等度)の診断を受け、同年八月に第二子を出産した後、同年一〇月二日から松浦診療所への通院治療を開始した。

(甲8の1、71、控訴人本人)

2  松浦診療所における控訴人に対する治療方針及び治療経過

松浦診療所における控訴人に対する治療方針及び治療経過は、事案の概要中、付加、訂正の五項に記載のとおりであり(但し、③第二期の治療方法のうち、鍼「47回」を「48回」と、HP「38回」を「41回」と、運動療法「49回」を「47回」と、それぞれ改める)、具体的な治療経過は、別紙「治療経過」(但し、別紙「治療経過訂正」のとおり付加、訂正する)、同「治療処方回数推移」(但し、56年10月のHP欄の「5」を「7」と、同水泳欄の「7」を「5」と、同年12月の灸欄の「2」を「1」と、57年3月の針欄及び灸欄の各「2」を各「3」と、同HP欄の「4」を「5」と、それぞれ改める)、同「治療・処方」(但し、56年10月9日及び同月13日の各HP欄に○を加え、各水泳欄の○を削除し、同年12月28日の灸欄の○を削除し、57年3月16日の針、灸、HP各欄に○を加える)、同「鍼灸・理学治療実績表(月別)」のとおりである(甲8の1ないし3、9、10、原審証人松浦良和、控訴人本人)。

3  本件処分に至る経緯

(一) 被控訴人(当時は天王寺労働基準監督署長)は、松浦診療所において控訴人に対し一般医療と併せて行われていた鍼灸施術の期間が、昭和五七年一二月三一日をもって前記通達及び連絡に定める初療の日から九か月の期間を経過する(控訴人は、前認定のとおり、前記通達施行の日である同年七月一日に初療の日から三か月以上を経過しており、前記通達及び連絡により同日をもって初療の日から三か月を経過したものとみなされるから、同日から六か月の経過する昭和五七年一二月三一日をもって、右九か月の期間を経過することとなる)ため、同診療所に対し同月二五日付書面により、控訴人の「現在の症状、現在までの施術効果、今後の症状改善の見込み(施術方針)」につき意見書の提出を依頼し、これに対する同診療所医師新井孝和作成、提出にかかる昭和五八年一月八日付意見書に記載の同医師の意見は次のとおりであった(甲71)。

「主訴及び自覚症状 頸肩部、背部鈍痛、上肢脱力、肩こり、腰臀部痛、下肢痛、下肢シビレ感

意見 当初、常時、腰痛、左下肢シビレ感があり、また、肩こり、後頭部、頸肩部痛が強かったが、主として針灸治療により、これら痛みは徐々に軽減するとともに、下肢シビレ感も消退するようになってきた。途中から水泳療法もあわせておこない、運動能力、筋力の向上をはかってきているが、この水泳療法による一過性の症状増悪や、また、リハビリ就労による痛みの増強なども鍼灸治療によって比較的速やかに軽減させることができている。今後さらに就労日をふやしてゆく予定であるが、鍼灸治療は、ますます、その必要性を増しており、今後三か月をこえる期間にわたって同治療を続けることが肝要である。」(甲73)

当時、控訴人は治療プログラム第三期のリハビリ就労期の丁度半分を経過したところで、一時的症状の悪化により運動療法を中止していた時期であった(別紙「治療経過」参照)。

被控訴人は、右意見に基づき、控訴人につき、前記通達及び連絡に定める三か月の施術期間の延長を認め、昭和五八年一月一日から同年三月三一日までの間の鍼灸施術費用を含む療養補償給付の支給決定をした(甲71)。

(二) 被控訴人(前同)は、右三月三一日をもって控訴人に対する同診療所の鍼灸施術期間が前記通達及び連絡に定める一二か月を経過するため、同診療所に対し同月二五日付書面により、控訴人につき、「① はり、きゅう施術の必要はないが、一般治療を継続する必要がある。② 一般治療を継続する必要はないが、はり、きゅう単独施術を継続する必要がある。③ 症状固定(治癒)の時期である。」の該当欄に○印を付し、医学的所見を記した意見書の提出を依頼し、これに対する同診療所医師新井孝和作成、提出にかかる昭和五八年四月二七日受付の意見書に記載の同医師の意見は次のとおりであった(甲71)。

「主訴及び自覚症状 頸肩部痛、背部鈍痛、肩こり、腰臀部痛、下肢痛、下肢シビレ感

医学的所見(該当欄に○印はない)

現在、段階的就労を行っているが、作業負担により肩こり、頸肩部痛、腰痛等の症状が増強してくることはさけられないが、一般医療、針灸治療によって、症状の軽減が得られている。今後も段階的就労をさらに進め、症状の安定をはかるため、一般医療、針灸治療ともに続けてゆくことが是非とも必要である。」(甲72)

当時、控訴人は、リハビリ就労期の三分の二を経過し、水泳療法から体操療法に移行する直前であった(別紙「治療経過」参照)。

(三) 控訴人は、被控訴人に対し、前記通達及び連絡に定める一二か月を経過した昭和五八年四月一日から同年一一月三〇日までの間の鍼灸施術費用を含む療養補償給付支給の請求を、昭和五九年一二月一二日になしたところ、被控訴人は、同診療所医師から右各意見書の提出を受けていたにもかかわらず、同月二〇日、うち鍼灸施術費用につき「政府が必要と認めた範囲を越える」との理由を付して不支給決定(本件処分)をした(甲71。控訴人は、昭和五八年一二月一日以降の鍼灸施術費用については、支給請求をしていない)。

しかし、本件支給請求は、控訴人の最終治療日である同年一二月四日から八日後になされたものであって、最終鍼灸治療日である同年六月二三日からは六か月近くを経過していて、既に同診療所における鍼灸治療は終了していたものであり、本件処分は、控訴人の右最終治療日から一六日を経過した後になされたものであった〔控訴人は、同診療所医師から治癒との診断を受けたわけではなかったが、症状の軽快により、右同日以後は受診の必要をみなかったので通院しなかったものである(控訴人本人)〕。

4 本件処分の違法性

(一)  労災法一条に定める前記目的からすれば、療養補償給付は、単に業務上の事由により負傷し、または疾病にかかった労働者の負傷、疾病の治癒を図るに止まらず、それら労働者の体力を回復させ、できる限り職場復帰の実現を目指すべきものと解するのが相当であり、既に行政解釈においても、労災保険の運用上「リハビリテーション医療」として種々の取扱がなされてきているところであって(甲68ないし70)、そのような観点から見れば、松浦診療所が、控訴人の治療及び職場復帰を目指して計画した、筋力強化のための運動療法及び職場復帰のためのリハビリ就労を中心とする前認定の治療プログラムは、基本的に正当なものと評価することができ、また、前認定の第一ないし第四期の各治療期間における治療経過及び最終的には治癒に至ったものであるその治療効果の推移に照らし、当時の一般的医学水準を基準とした判断において、その治療内容は適切、妥当なものであったと認めるのが相当である。

そして、前認定の控訴人の右治療開始当時の症状からすれば、控訴人は当時慢性的な頸肩腕症候群及び腰痛症に罹患していたものと認めるべく、前認定の鍼灸治療の慢性的な頸肩腕症候群及び腰痛症に対する鎮痛効果の有効性に照らせば、右各治療期間における鍼灸治療は、必要かつ有効なものであったと認めるのが相当である。

(二)  そうすると、前記通達及び連絡に定める一二か月の施術期間が満了した昭和五八年四月一日以降においても、控訴人については、当時の一般的医学水準を基準とした判断において、なお、一般療法に併せて鍼灸治療を継続することが、少なくとも本件請求期間中のものについては、医療上相当であったものと認めるのが相当である〔控訴人は、昭和四九年から同五八年までの間に、慢性膵炎、腎孟炎、膀胱炎、尿路結石、肝障害、胃腸炎等多数の病歴を有し、かつ、昭和五二年九月に長女、同五五年八月に二女を出産しているが(甲8の1ないし3、控訴人本人)、同五八年四月一日以降、特に右疾病及び育児に伴う症状悪化の治療のために鍼灸施術がなされたとは、本件全証拠によっても認め難い〕。

控訴人の同診療所における前記治療期間は四年二か月(うち鍼灸施術期間は三年八か月余)に及ぶものであるが、一般的に保母の業務が慢性かつ難治性の頸肩腕症候群及び腰痛症を生じさせるものであることについては、既に臨床例に基づく研究報告が種々なされているところであり、難治性の頸肩腕症候群及び腰痛症の治療期間が三年、五年、一〇年といった長期にわたることも、必ずしも珍しいことではないから(甲43、44、48、59、乙32)、前認定の控訴人の右治療開始当時の症状及び右治療の結果として最終的に治癒するに至ったことに鑑みると、右治療期間は、控訴人の慢性的な頸肩腕症候群及び腰痛症の治療のために必要かつ相当なものであったと認めるべきである(控訴人の前記疾病及び育児に伴う症状悪化の治療のため、特に右治療期間が延伸されたとは、本件全証拠によっても認め難い)。

(三)  整形外科医である松元司は、業務上の事由による頸肩腕症候群の発生要因としては、労働条件、労働環境等の労働因子、基礎体力の不足、身体の先天的異常等の身体的因子及び精神的、心理的諸問題に由来すると考えられる精神心理的因子の三大要因が存するのであり、もっと重症の骨折、挫傷等の外傷であっても、通常は六か月も治療をすれば、ほとんど治癒するか症状が固定するのに、重度な他覚的症状がないにもかかわらず、休業により労働因子を除外して三〜六か月を経過しても症状が回復しない場合は、精神心理的因子による病気であり、身体的、病態生理学的な問題ではない旨供述しており(前記甲15ないし20、原審証人松元司)、他の整形外科医にも、業務上の事由による頸肩腕症候群については、愁訴が多彩で、かつ多く、他覚的所見に特異性を見出し難い症例が特徴的であることから、精神・心理的要因や性格傾向の関与を重視する者が多い(乙32、37)。

しかしながら、なるほど、業務上の事由による頸肩腕症候群につき精神心理的因子が関与しているであろうことは、常識的にも首肯し得ることではあるけれども、他方で、右三大因子が截然と分離され区別され得るものではなく、特に精神心理的因子が労働因子及び身体的因子からの影響を受けて変動し易いものであることも経験上明らかであり、日々の職業生活における労働過重による疲労蓄積、ストレス等の労働因子の長年にわたる累積的負荷から不可逆的に発症するに至った場合、右労働因子が精神心理的因子に日々累積的に多大の影響を与え、そのことが病像を複雑、難治なものにするということも、常識的に容易に理解し得ることというべきである(突発的事故等による骨折や挫傷等の方が、例え整形外科的には重症であっても、精神的因子に働きかけるところは、むしろはるかに軽く、その結果、身体的に治癒しさえすれば同時に精神心理的にも治癒するのであって、全身体的に見れば、むしろ治癒が容易であるとも考えられる)から、単純に、労働因子を除外しさえすれば、当然に短期間で症状が軽快するはずであるとはいえないし、また一定期間の労働因子の除外後に残存する症状は、全て精神心理的因子に起因するものであるなどということもできない〔そのようなことを科学的に実証した研究結果は、本件全証拠によっても、これを認めることができない。むしろ、逆に、職業性の頸肩腕症候群の患者と神経症の患者との間には、不安度において全く違った面があり、難治症例即神経症との判断をすべきではないとの研究結果も存するところである(乙39)〕と認めるのが相当というべく、右の供述にかかる見解は採用し難い。

(四)  以上のとおりであるから、控訴人に対し、前記通達及び連絡に基づき、初療の日から一二か月を経過した昭和五八年四月一日以降の鍼灸施術につき療養補償給付の支給をしない旨の本件処分は、労災法一条に定める同法の目的及び同法一三条二項の法意に反する違法なものと言わねばならない。

第四  結論

そうすると、控訴人の本訴請求は理由があり、これと異なる原判決は不当であるから、これを取消し、控訴人の請求を認容すべく、訴訟費用の負担につき行政事件訴訟法七条、民事訴訟法八九条、九六条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官山﨑杲 裁判官上田昭典 裁判長裁判官潮久郎は退官につき、署名押印することができない。裁判官山﨑杲)

別紙治療経過〈省略〉

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